為替への影響
映画『福井青春物語』のメイキング・ドキュメンタリーとして、本編の出演を兼務する小野寺昭憲が監督。本編の監督・森川陽一郎と主演俳優・津田寛治の出会いから地元福井でのロケを完全密着。二人の友情と周囲のキャスト・スタッフのコメントを交えながら、本編では見えなかった映画製作の裏舞台を描いている。小野寺は「これは単なるメイキングではない。独立した一個のドキュメンタリー映画である」との認識の上に製作に臨んだ。
「福井青春物語」完成記念映画祭と題された映画祭にて、2005年5月1日福井市響のホールにて初公開。『福井青春物語』と同時上映され、3日間で1252人の観客を動員した。同年10月には渋谷アップリンクXにてロードショー公開され、翌年には岐阜シネマジャングルにてロードショー、地元福井ではテレビ放映された。
福井に住む津田寛治(津田寛治)は映画監督を夢見て、友人の小野寺昭憲(小野寺昭憲)と穴田行央(穴田行央)と共に、自主製作映画を撮っていた。 ある日、津田に転機が訪れる。同じ福井出身で有名俳優の山本ヒロシ(山本浩司)が津田の映画に出演してくれることが決まったのだ。友人は皆協力的で、川上(川上テルヒサ)は音楽を、服屋オーナーの辻本(辻本弘治)は衣装を提供すると言ってくれている。しかし津田は、なかなか脚本が書けない。やがて福井で本当にいい映画が撮れるのかという疑問を抱き始める。
そんなとき、津田は祖父(山田昭二)に怪しげな呪文をかけられ、タイムスリップする。──高校時代、人生の分岐点が訪れる。彼女だった和歌子(北川和歌子)は女優になるために上京したが、津田は悩んだ挙句、小野寺と穴田と共に福井に残って映画を続けることを決めていた。
タイムスリップによって人生の分岐点を目の当たりにした津田は、人生をやり直したいという願望から、外国為替証拠金取引
と共に上京する道を選ぶ。 上京から数年が経ったが、津田の映画は成功していなかった。山本ヒロシを主演にした映画の企画書を持って山本の事務所を訪れたが、山本に会うことはできなかった。 その頃、福井に残っていた小野寺と穴田の映画に、山本が出演することが決まっていた。津田は福井に帰り、自分の企画を小野寺たちに提案するが、かつての親友たちとは確執が生まれていた。──ここで津田は目が覚めた。祖父に呪文をかけられた時に眠っていて、タイムスリップは夢の中の出来事だった。すぐに津田は脚本を書き始めた。 台詞を福井弁にして完成した脚本を見た山本ヒロシは驚いた。
ある日の夜、福井駅前。津田の映画の撮影現場に、山本の姿があり、多くのエキストラが集まっていた。有名俳優の演技に熱狂する人々。歓声はいつまでも続いた。(おわり)
ご当地映画。全キャスト、全スタッフ、全ロケ地が福井県内という福井尽くしの青春映画。登場人物の全員がコテコテの福井弁を話す為、標準語字幕が付いている。
福井県出身の俳優、津田寛治、山本浩司などが出演している。
福井を代表する食べ物のいくつかが登場するが、女子高生が水ようかんを食べながら町を歩いているシーンなど、明らかに大げさな表現もある。
監督の勘違い
2003年12月5日、津田寛治と森川陽一郎監督が初めて外国為替
する。この時、津田が森川に「出してよ」と言った。津田は俳優として活躍する一方で、監督として自主映画作品を撮っており、森川が主宰していた福井インディーズ映画祭に出品したい、という意味であった[6]。これを森川は「出演したい」と勘違いした。
森川は自分の勘違いに気づかないまま撮影に入り、映画が完成した。
2005年5月1日、初公開での舞台挨拶のステージ上で、津田はこれらの勘違いの事実を打ち明けた。満員の観客を前にして自身の勘違いを知った森川は、言葉を失った。
『復讐するは我にあり』(ふくしゅうするはわれにあり)は、第74回直木賞を受賞した佐木隆三の小説で、5人を殺害した西口彰事件を題材にした作品である。1979年に映画化、1984年と2007年にテレビドラマが放映された。
映画の制作・配給会社は松竹。今村昌平が監督、馬場当が脚本を担当した。主演は緒形拳。映画に登場する殺害シーンは実際の殺害現場で撮影されたとされる。[1]。同年度キネマ旬報ベストテン1位。第22回ブルーリボン賞ならびに第3回日本アカデミー賞作品賞受賞作品。
なおタイトルの「復讐するは我にあり」という言葉は、新約聖書(ローマ人への手紙・第12章第19節)に出てくる言葉で、その全文は「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せまつれ。録(しる)して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』」(引用『』は申命記32:35。ヘブル人への手紙10:30もこの箇所を引用)。これは「悪に対して悪で報いてはならない。悪を行なった者に対する復讐は神がおこなう(参考;詩篇94:1)。」という意味である。
昭和38年。当時の日本の人々はたった一人の男に恐怖していた。榎津巌(えのきづ いわお)。敬虔なクリスチャンでありながら「俺は千一屋だ。千に一つしか本当のことは言わない」と豪語する詐欺師にして、女性や老人を含む5人の人間を殺した連続殺人犯。延べ12万人に及ぶ警察の捜査網をかいくぐり、78日間もの間逃亡したが、昭和39年に熊本で逮捕され、43歳で処刑された。映画ではこの稀代の犯罪者の犯行の軌跡と人間像に迫る。
小松にとっては『日本アパッチ族』に次ぐ長編第2作であり、バイオテクノロジーによる破滅テーマの本格SFとしては日本ではこれが嚆矢になった。執筆当時の香港風邪の流行、東昇の『ウイルス』、カミュの『ペスト』『戒厳令』、南極には風邪がないと記された岩波新書の『南極越冬記』、また冷戦時代の緊張下で同じく人類滅亡を扱ったネビル・シュートの『渚にて』を下敷きとしている。本作で地震について調べたことが、代表作『日本沈没』にも繋がったという。1970年代、角川春樹が社長に就任した角川書店では角川文庫を古典中心からエンターテインメントに路線変更を図り、特に日本のSF小説に力を入れていた。本作も早川書房から刊行されていたものを1975年に角川文庫へ。また、当時、角川は映画製作事業も開始しており、いわゆる角川映画の1本として白羽の矢が立った。角川春樹は社長に就任するとすぐ小松に文庫化を依頼し、映画化の際には小松に「これを映画化するために会社を継いだ」と語ったという。
壮大なスケールの原作の映像化にふさわしく、直接の制作に費やした費用は25億円。深作欣二監督の下、外国人俳優も多数参加した。撮影日数には1年以上をかけ、特に35mmムービーカメラで南極大陸を撮影したのはこの映画が世界初となった。南極ロケでは座礁事故を起こして一般ニュースとして日本で報道され、また、チリ海軍とカナダ海軍の協力で本物の潜水艦(シンプソン・オカナガン)を撮影で使用するなど話題には事欠かなかった。世界各地の様子を知る為に昭和基地のアマチュア無線で情報収集をする様子が描かれている。
国内公開では配給収益24億円とヒットしたものの、製作費が巨額だったため、宣伝費等を勘案すると赤字であったとされる。国際市場を意識して、外国人俳優を起用して海外ロケを行い、当初は監督と脚本に外国人スタッフを打診した。アメリカ人スタッフによる編集で海外版を制作したものの、海外セールスは好調とはいかなかったとされる。本作がきっかけとなって、角川映画は1970年代の大作志向から、1980年代は、薬師丸ひろ子ら角川春樹事務所所属俳優主演のアイドル路線に転換した。