生産者物価指数
野坂昭如の実体験が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含む小説である。6月5日の神戸大空襲により自宅や家族を失ったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出などはすべて作者の経験に基づくものである。また野坂は戦中から戦後にかけて二人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかしながら西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂はその家の美しい娘に夢中であり、幼い妹(物語とは異なりまだ1歳で、後に疎開先の福井県で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。また食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実もない[4]。 野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒をみなくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたと認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという。西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している[5]。 こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、CFD だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹へのせめてもの贖罪と鎮魂の思いを込めてこの作品を著したのである。 その意味では二人を冷たく突き放した親戚の小母もまた、自分が生き抜くことだけで精一杯で妹を死なせてしまったという野坂自身の悔恨が投影された姿であると言えるのかもしれない。 アニメ映画版 火垂るの墓の碑 石屋川にて同名のアニメ映画『火垂るの墓』(英題:Grave of the Fireflies)が、新潮社の製作で1988年4月16日から東宝系で公開された。制作はスタジオジブリ、監督・脚本は高畑勲。ストーリーは原作をほぼ忠実になぞっているが、後半部分の演出、特に節子の死のシーンの描写などはアニメオリジナルである[6]。挿入歌としてアメリータ・ガリ・クルチの「埴生の宿(原題:Home,Sweet Home)」が使われた。 映画『火垂るの墓』は、1988年の公開時、宮崎駿監督作品『となりのトトロ』と同時上映されている。先に企画された『となりのトトロ』は、当初、60分程度の中編映画として企画されており、単独での全国公開は難しかった[7]。そこで同時上映作品として高畑勲監督作品『火垂るの墓』の企画が決定したという経緯が伝えられている。最終的に、両作とも上映時間は90分近くなり、長編2本体制で公開された。アニメ映画界の二大巨頭の代表作、しかも作風も物語も印象も全く相反する内容の作品を一緒に観ることができたが、当時としてみれば地味な素材であった上、東宝宣伝部が消極的だったことや[8]、高畑・宮崎両監督の一般的な知名度も現在ほどではなく、消費者金融 日が春休み後の中途半端な時期でもあったため、配給収入は5.9億円と伸び悩んだ。評論家からは好評で『キネマ旬報』誌の日本映画ベストテンでは6位に食い込んでいる。 両映画の制作はスタジオジブリで同時に進行した。宮崎は先に自らの監督した『天空の城ラピュタ』を引き続き確保し、高畑はスタッフはゼロの状態からスタッフを確保することになった。東映動画でも長編作品を2本同時進行したことはなかったといい、高畑・宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮することになった[9]。特に揉めたのが作画監督の近藤喜文の処遇であった。 徳間書店社長・徳間康快の要請を受け、野坂の原作小説を文庫として販売している新潮社が『火垂るの墓』の出資・製作となっている。新潮社がメディアミックスで映像製作に携わる初めてのケースとなった。こうした経緯もあって、ビデオやLDは徳間系列ではないパイオニアから発売され、その後リリースされたDVDも、ジブリ作品としては例外的にワーナーの扱いとなっていた(新潮社との契約が満了した2008年8月以降はブエナビスタから再発されている)。 当初は両作とも60分であったが、高畑の『火垂るの墓』の時間が長くなると、対抗するように宮崎の『住宅ローン 』の時間も延び[10]、結果的に長編2本の同時進行となった。質を落としたくない高畑勲は公開の延期を申し出たが、1988年4月の公開時点で清太が野菜泥棒をして捕まる場面など未完成のシーンが残ったままとなり、その部分は色の付かない白味・線撮りの状態で上映された。公開後も制作を続け、後に差し替えられている。 わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑勲はいったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰することになる[要出典]。 監督の意図 高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたが、反戦アニメと受け取られたことについては当然だろうとしている。高畑は兄妹が2人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功したものの、社会生活には失敗した姿が現代に通じるものであると制作する意義を解説し、現代の高校生から20代に共感してもらいたいと語っている[11][12]。 テレビ放映 日本テレビ系で放送されている『金曜ロードショー』では二年に一度、8月の終戦記念日前後にこの作品を放映するのが恒例となっているが、1990年と2007年は清太の命日である9月21日に放映された。他にも1997年と2003年は節子の命日である8月22日に放映されている。 作中に登場する御影公会堂(現存)『M&A 』のような楽しいアニメを見ようと映画館を訪れ、楽しいトトロを見た後に『火垂るの墓』を見て、衝撃を受ける、涙が止まらない、茫然自失で席から立ち上がれない観客が続出したという[13]。 韓国では翌年の1989年4月に公開された。日本を被害者として美化しているという批判もあったが、一方で普遍的な良心に基づいた共感もあり、賛否が分かれた。しかし竹島を巡る領土問題により、反日感情が再び高まった2005年の再公開の予定が中止になった[14]。 舞台となった西宮市の西宮回生病院、香櫨園浜、夙川駅、夙川公園、ニテコ池(貯水池)、神戸市の御影公会堂や御影小学校、石屋川、三ノ宮駅などは現在も存在している。これらモデルとなった場所を訪ねる人は絶えず、地域史研究の一環として地元の教育委員会が見学会を催すこともある。尚、ニテコ池へは阪神電鉄西宮駅より阪神バスの「山手線」もしくは「鷲林寺線」で「満池谷(まんちだに)」下車すぐである。 終戦60年スペシャルドラマ『火垂るの墓-ほたるのはか-』として2005年11月1日21:00 - 23:54に日本テレビ系列で放送された。『ドラマ・コンプレックス』第一弾番組でもある。撮影は当時の風景を可能な限り再現するために、神戸周辺のみならず日本各地をロケして行われた。視聴率は21.2%を記録した。2008年4月6日、6月20日にはWOWOWにて再放送されている。 アニメ版とは視点が異なり(小母の長女からの視点として、語り部的役割も同長女が担う)、清太と節子よりもむしろ親戚の小母を中心に描かれている。それ以外にも、なつ・善衛といった小母の家族を温情的(清太・節子に対し冷酷な小母の態度・行動を非難させる場面を盛り込む等)な人物とし、その上で、後々の小母に対する理解を語らせるなど、小母を一方的に悪役として描いたアニメ版に対する反省でも込めたかのような作りになっている。戦争の悲惨さを素直に受け取った肯定的な反響も大きかった反面、供養もしない上での河川への散骨、また過去の辛い話をまるで良い思い出話であるかのように微笑みながら話す現在の描写などは賛否両論である。さらに、直接的に「 - のせい」というような台詞は盛り込まれていない原作およびアニメ版に対し、ドラマ版では戦時日本の軍国主義に対する直接的な批判や思想が、小母の台詞にいくつも含まれていた。その点では、当時の日本の国策に対して責任を転嫁したとも取れる内容であったかもしれない。中でも小母の「死んだら負けよ」という台詞に対しては、「死にたくて死んだ訳でもない人々に対して気の毒だ」もしくは「清太と節子は死んでも良かったのか?」などの意見が、放映直後公式サイトBBSへ多数寄せられたのも事実である。 原作およびアニメ版とは大きく異なる設定としては以下のような点があげられる。